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ヨーロッパ行きを振り返って ダッチロール [うちゆう宇宙の旅]

終戦から、安保闘争、高度成長・バブルの激動の時代を経て、日本が豊かさ便利さなど得たものは大きいが「失ったもの」なんだろう。民族を支えた基盤を失ってはいないか。じつはかなりヒステリックな混乱状況にあるかもしれない。敗戦で失われた自信を、高度成長期で取り返したかと思うと、あっという間に失ってみた。(世間を代表して)煽るマスコミ・メディア。自分の親を照れくさく嫌う子供っぽさもありや。民族を育んだ日本の文化、伝統、自然を振り払うように切り捨てている。失うより得たものが多くてマシ。明治以来、文化・価値観・食べ物などがあまりに短期間にいろいろ変わりすぎて、常識やなにがあるべきかなども変容を続けてわかにくくなってきた。たとえば「なぜ人を殺していけないのか」「勉強するのか」「生きるのか」などなど、あらためて考えなくてはいけなくなってしまった。置き去りにしたことを オウムのような詐欺師連中につけこまれて、優秀な人材も捕られて、けっきょく社会が痛手を受けてしまった。

同じ戦後60年を過ごしたヨーロッパはどうだったか。まだ古きよき価値観が残っていたのかと思ったけれど、若い人たちはほぼ無宗教とも言われるし彼らはそれなりに一家言あるかもしれない。でも、家族・友人・自分、時間など、人生の目的、生活の楽しみを大事にしている様子が伝わってきた。日本人も「だってしょうがない」と被害者のままでとどまらずに、人生・生活の質を(再度)求めていかなくてはいけないんじゃないか。一人一人が、先ず自分が、実践していかないと、自分たちの良いと思っていることを阻もうとする頑固な部分が この国では変わらない。自分で勝手に遠慮して縮こまっていたり、他人の目・評価を気にしていては なかなかできない。経済的にも情緒的にも不安定になるのはある程度承知、タフにならないといけない。そんなことを思いながら帰ってきた。

帰国1年経って、今はどうだろう。そういうダッチロールにも慣れたような、そうでもないような・・・ただ、同じような思いの方 取り組みの方に少なからずお会いできた。結局は一人一人の生き方の選択になるが、そういう骨太の人が一人ずつでも増えて、社会を良くしていこうという流れができれば、また、救われる思いをする人が増えるならいいと思う。


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カミノ後伝 スペイン・ポルトガル(2004.11.16-12.4) [うちゆう宇宙の旅]

久しぶりに更新するとアクセスがあがって やりがいが出てきます。さて、年越しになった 「うちゆうの旅」も決着をつけなければなりません。カミノので会ったイワン父子や、今も連絡を取っているアナの家に泊めてもらいながら、大西洋岸をポルトガルに南下し、マドリッドとパリを経由して帰国したのですが 一気に書いてしまいましょう。

サンティアゴから鉄道で90分ほどでガリシア州 VIGOという大西洋岸の港町に移動。ホテルに入ってレストランで牡蠣やイワシを楽しんでいると、約束どおりイワンがやってきて飲みに出た。夜、彼の会社の上司と合流してカラオケバーへ、ホテルに歩いて帰ったのは朝4時(すごい時間割り)・・・駅近くの美術館で前衛作品を見る。

 ナンセンスと芸術の間のスリル?

その晩はイワンの家でフアンにワイナリーや畜舎を見せてもらったり、友人や妹カップルも集まってくれて手料理を馳走になったうえ泊めてもらった。翌朝、駅まで送ってもらい、メキシコの首飾りをもらって、3両編成の短い電車でポルトガルに発った。

 vigoの美しい夕焼

河を渡ってポルトガル。景色(田舎!)や人の感じ(小さい!)が目に見えて変わる。検札の車掌の挨拶もオブリガードに。VIANA DO CASTEROを観光して電車待ちをしていると、ホームでおじさんがグラスワインを渡してくれて早口で話しかけてきた。以前半年ほど勉強した片言のポルトガル語で相槌したけどぜんぜん聞き取れず自信喪失。ブラガに入ってボンジェスス Bom Jesus do Monteを観光。ここも巡礼地なのだとか。五感の泉に感心。さらに世界遺産らしいギマンライス Guimarães。気が付いてきたのだけど、どうもここの人たちは、日本人に似て、ありがとう・ごめんなさいをよく使う。ユーラシア大陸の端と端。郷愁・サウダージの国。つい共通点を探してしまう。翌日ポルトへ。坂に立つ大きい町。駅前から旅2回目の日本へのコール。サンフランシスコ教会 Igreja Monumento de São Francisco の豪華な祭壇にびっくりしたが、地下に降りると誰もいない天井の低いスペースに棺おけがずらりと並んでいて、その上には髑髏が置かれたりしていてまいった(勘弁してくれ~)。河沿いのレストランで昼食を楽しんで、名物のワイナリーSandeman か calemへ。外国語のツアーおいうことでスペイン語に入ったがやはりわからんかった。ポルトワインは強くて甘くて好みでないが、それとなくそう伝えたら「うまい」と言わせようとばかりに何種類も出してきてくれた。安宿に入ったばかりに当日のクラシコ(マドリVSバルサ)が入らずがっかり。そうか。ここは外国になったから、BSでないと入らないのだ!次の日もドゥエロ川岸でドンルイス1世橋Ponte Luís I を見ながら食事。今度はポルトガルポトフで旨い!

 ポルト

大学の町コインブラへ。さっそくローマ遺跡の町コニンブラガ Conímbrigaに。モザイクタイルが素晴らしい。噴水や温泉跡が優雅に並んでいる。床暖房のようなものもあったらしい。際を流れる河が切り込んでいるやはり要塞地形。そういえば仙台の青葉城も。ヨーロッパで最も古い大学のひとつ=コインブラも大学に上がる坂を中心に面白い。黒いマントを羽織った優秀な学生さん。バルでギターなどで盛り上がっている若者たち。いいな。今回は先日ボローニャにも行ったから、Universitas" (ウニベルシタス)を起源とした中世大学、近くのサマランカも行ってみたい。郷土料理というシャンファーナ(羊のワイン煮)をいただく。ニンニクが丸ごと一つ入っていた!

翌日ファティマへ。カミノ仲間でも話題にあがっていた「素晴らしい所」。教会までしばらく歩く広い敷地では多くのホテルが建設ラッシュ中。こんな現象は日本には伝えられていない。毎年の出現日には何百万人が世界中から集まるのだそうだ。広場には石畳を膝まづいて祈りながら進む信者の姿も。チベットの五体投地を思い出す。「人はなぜ祈るのか?」 ろうそくを手向ける場所があったので3本手向ける。Wax Museumにも。11時からのバジリカ(ミサ)に出席。100人ほど。1917年。ちょっと前の奇跡だからか、信者の数も多い。目撃者の3人の子供のうち2人は早逝している。昼食をとって、元気のいい運転手のバスで海岸のナザレへ。途中寄ったバターリャの町の大修道院を「俺んち(MINHA CASA)」と指差して皆を笑わせる。ナザレは漁師町。でも案内されたホテルのいい香りに誘われてチェックイン。黒い大きく広がるスカートをはいたおばさんたちが元気良い。イカとエイと野菜を煮込んだCaldeiradaは美味かった。翌朝、シティオ地区に上がって海岸線の展望を楽しみ、カルダスダライニャに出てセラミックショップで買い物をし、かわいい小さな古城の町オビドスへ。夜、レストラン ラミーロ(Restaurante A Ilustre Casa De Ramiro, Rua Porta do Vale, Óbidos)は客は僕一人、ボーイが入り口に丁重に出迎えに出てきたりして、これは高そう!と覚悟したが、暖炉の火で温まりながら、鴨メニューをとてもいいサービスでもてなしてくれた。ベストディナー。

とうとうコロンブスが船出したリスボンへ。洗濯やインターネット・電話とさすが首都だけあっていろいろ便利。日本人団体も沢山見受けられる。サンジョルジェ城(Castelo de S. Jorge)から見た夕陽はとてもきれいだった。なぜヨーロッパではこんなに綺麗なのか。空気?緯度?LUZスタジアムでベンフィカのUEFAリーグ戦を観戦。翌日はシントラで宮殿巡り。たまたま首相が遊びに来ていて王宮は入れなかった。ロカ岬で夕陽を見て戻り、有名な市電で坂道を昇ってバイロアルトで、ロカで会った日本人男性と食事。蛸・アンコウのリゾットが美味。宿は安宿だが、白いタイルを張り巡らして白づくしのバスが嬉しくてMDを聞きながら数時間お湯につかる。缶詰屋で水産缶詰を土産用に買い込み、午後は美術館巡り。夜はファド観賞、日本の演歌か?最終日、BEREMに向かう。銘菓デ・ナタをいただく。注文時すっかりポルトガル人で通ったみたいだ(後で驚かれた)。発見のモニュメント・修道院・美術館を巡る。金星の富の収集品がある。展示品の狩野派の南蛮屏風は国宝級だろう。夜行を待つ最後の夜、蟹を一ぱい頼むと木のとんかちが一緒に出てきた。冗談だろうと聞いたがそうでもないらしく叩いて食べた。ドイツ人に人気なのかドイツ人が多い店内でレアルのリーガの試合を中継していたのだが、フィーゴがするどい切り替えしからミドルシュートを決めるとウェイターたちの動きが止まって立ち尽くし、目が潤んだような気がした。

CHAMARTIN駅からマドリッドへ。アナが迎えに来て、家に連れて行ってくれて部屋を貸してくれた。ROTIE公園を散歩して、空港でカミノでやはり一緒に歩いたアナリスと合流してランチにステーキを食べる。アラブ式に骨ごとかぶりつくらしい。夜再度街に繰り出して10年前に歩いたであろうソルや王宮・マヨール広場を巡ってフラメンコを観賞。アナとの楽しい朝食の後、大航海時代の至宝を集める王宮を観覧して、ソルでアナと合流してレバー料理でランチ。ゲイの街では横断歩道の標識も2人が手を繋いでいる!文人が集まったという上品でクラシカルなカフェでお茶。弁当(ポカリージョ)を持たせてもらって駅に送ってもらう。アナには本当によくしてもらった。

アフリカ人・南米人と同室の夜行でパリへ。初パリ。スペイン語でも華(florence)の都というそうだ。あー、寄るべきでなかったかも。何もかも華やかで今までの宝石のような思い出がかき消えてしまうような・・・ノートルダム寺院・エッフェル塔ともすばらしい。中国人がいっぱい。ぎゃーぎゃーとしていて集中してお祈りできないフランス人がかわいそう。凱旋門からシャンゼリゼ通りを歩く。ここでは日本人が多い。特に女性は皆とても鋭い目つきをしている。面白くて20km歩いたかも。次の日はルーブルを集中観覧。サモトラのニケからモナリザまで撮影・デッサン、フリー状態。「フラッシュを   浴びるほど にやけるモナリザかな」 世界の美の中心のセンターが此処にあるわけが分かった気がした。一日足を棒にして歩いた。そして最後の夜。とうとう帰るのか。長かったような短かったような。なかなか寝付けず、ぼうっとしたまま朝起きだしてCDG空港に出て、昼の便に乗り、マレーシアで乗り換えて次の日の夕方帰国。12月の日本も温暖で明るかった。悪いところではない、と思った。

  マグダラのマリア(ルーブル) ダビンチコードを思い出す


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カミノ⑦ サンティアゴ フィニステーレ (2004/11/13-11/16) [うちゆう宇宙の旅]

<サンティアゴ>(やはり年を越えてしまった)

 

最後の日は今までとは違う朝を迎えた。あと5km、1時間少々を残すだけだ。歓びの丘で前泊するのは慣わしであるかのようであった。朝8時にゆっくり目に起きて朝食を取り、5人でてくてくサンティアゴの町に降りてゆく。人が多く大きい町だ。古い街並みに入ると、にわかに土産物屋やホテルが賑やかに立ち並び、巡礼の最終地のような雰囲気が出てきた。せまい石畳の道を歩いていくと、ほどなく町に入って見えなくなっていた2本の塔が大きく見えて教会の敷地に入る。土曜日ということで特に観光客が多いらしく、仲間も驚いて「アヤヤヤ」とぞろぞろと続く観光客の列を見やる。最後の階段をアナ2人がイワンを両脇に抱えて下りると大きい広場に到着した。

イワン父子はその場で大の字に倒れて天を仰ぎ、周りの観光客の好奇の視線を集めた。サンティアゴ教会は昔よろしく苔を生やしながら青空に大きく仰ぎ見られる。とうとう中世以来の巡礼の地に着いたのだ。もう、次を目指して歩かなくていいのか!!
しばらく、写真を取り合うなどして喜びを味わって、巡礼者向けのオフィスへ向かう。建物に入る前に、とりあえずカフェ!12時に巡礼者向けのミサが始まるが、11時までにオフィスで手続きを終えていればいいのだそうだ。オフィスの窓口にしばらく並んで、いくつかのヒアリングを受けた後「巡礼証明書」をいただく。アンケートの協力も求められたが、他のルートを歩きたいか、など、カミノの発展への息込みがうかがえた。オフィスを出ると、ロドリゲスら巡礼中のなじみの顔も見えて互いにGOALをたたえあう。見ているだけで幸せな気分になれる彼とはそこでお別れだった。

少し遅れて聖堂に入ると、広い堂内は超満員であった。正面右のスペースに人ごみをかき分けて司教を映すモニターの下にたどり着いて、熱心に話を聞いているフアンの横でかしこまっていると、アナ2人が急に両側から肩をたたいて頷いた。司教が「今日着いた巡礼者を祝福します。マドリから2人、日本から1人・・・」と、僕のことを言ったのだそうだ。うーーん、まるでドラマだ。そしてミサは、ボタフメイロという、お香をもうもうと焚いた銀の壷を天井高くに持ち上げて教会の左右いっぱいに振り回す儀式に移り、境内の興奮は最高潮になって終わった。毎年7月12日にしか行わないのだそうだが、今年は何年にか1回の聖年ということで、目にすることができたのだという。

 煙を出して振り回される香壷

半ば呆然としながら、人が引いていくのに応じて聖堂の正面に移って祭壇を見ると、人間大の飛んでいる天使を両側に従えた、ヒンドゥー教会のようなエキゾチックな装飾であった。そして、正面に実に分かりやすく聖ヤコブ(サンティアゴ、フランス語でセイントジェーン)が鎮座ましていらした。

正面席にはベルトリがいた。昨日、サンティアゴ目前にして、途中で疲れて歩けなくなった老人巡礼を手前の宿まで戻って届け、取って返して今日20km歩いて、先ほど着いたばかりなのだという。なんという功徳! 

街中に出ると、さらに次々と巡礼仲間と再会を果たし、そのたびに抱擁となる。マリーやフランチェスコも。イビサのジェロニモ。指を介抱してくれたおばさんも。日本人のマイさんと大森さんの2人にも会った。久しぶりに話す日本語をスペイン人の友人たちは興味深そうに見守っている。おまえは本当に日本人なのだなと。そして、海鮮レストランで打ち上げをしてお別れ。今夜には家に帰れてしまう人もいるのだという。広場のケルト音楽が生演奏される中、手を振って分かれる。また、すぐ会えるような気がしながら。

 (カミノ 終了)

フィニステレ Cabo Fisterra
ベルトリが、巡礼に着いたその日に限り立派な市庁舎に泊まれるというので街外れにいったん出て荷を下ろし、久しぶりの大きい街をぶらついて楽しむ。ベルトリは、その昔多くの巡礼が訪れたという、フィニステーレ、地の果てという名の海に突き出る岬に行くべきだ、というので、もう、また瀟洒なホテルに泊まって身体を休めたいと思っていたが、もうひとがんばりすることにした。翌朝、8時に出て9時のバスに乗って、CAFEフィニステーレのある町を経て蒼い海の望める港町に行き着く。その昔、ポルトガルのロカ岬よりも、こちらのほうが西にあるとされていて地の果てということで皆来たという。マイペースのベルトリと別れて、あるカフェで荷物を預けてゆっくり朝食を取った。スペイン人と何日かいっしょにいるうちに彼らの日常のペースが移ってきたらしい。さて、そうして行き着いた「果て」は正面270度の展望が広がる絶景の地であった。灯台とクロスの他に取り立てて何もないが、しわくちゃにボロになった靴のモニュメントがあった。ところどころ焚き火の跡が見受けられるが、夏の間の巡礼がここで夜を過ごしたのだろうか、中世の人たちも同じようにしたのだろうか、何を語らったのだろうか。どこまでも蒼い海と空と浮かぶ雲。巡礼とは?中世当時は、人生を、命を賭けて何を見にやってきか?那智の補陀洛・浄土信仰と似たものがあるのか。日常から非日常。答えは風の中?

岬から昔の痕跡はないかと、多くの巡礼を苦しめたであろう刺々しい草を掻き分けながら山の稜線を辿ってみて町に戻る。港で、巡礼の象徴であるホタテ貝を売っているところがあったので記念にいくつか買い求め、プルポとチョビットでささやかに祝杯する。あの楽しい仲間がいないと寂しい。先に戻っていたベルトリを見つけ、サンティアゴまでバスで戻ってさよならする。昨日の盛大なゴールも良かったが、結局、今日静かに地の果てに行って来てよかった、と最後、彼女にも感謝を申し上げた。

 何人の巡礼を迎えたのか

サンティアゴにはその後、1日半滞在した。郵便局で各地から送った荷物を回収してまた荷物を重くし、少なからず張り詰めいたものが緩んでくるのか、体が重くなり、さらに抑えていたものが出てきたのか いろいろなことにイラついてきた。いつまでも聖なる巡礼者とはいられないようだ。旅行中では在るが日常が戻ってくる。カフェに行ってトーストとカフェとオレンジジュースをいただく。そう、これでだいぶ落ち着ける!

旧市街を歩いていても、聖堂に行っても、平日で観光客もちらほらしかいなくなり、もう見知った巡礼の顔は見られなくなっていた。巡礼当初に出会った、トマスやケビンはまだか。マルチナやアンナはまだブルゴス辺りかなあ。聖堂に行くと、到着したばかりであろう、何人かの身ぎたない巡礼が(2日前は自分がそうだったのだが)、ミサを敬虔に受けている。その表情には彼らの感動が見受けられる。そう、もう主役は彼らになり、髭を剃ってしまった僕はもう過去の巡礼になってしまった。ここもまた居心地がいいけれど早々に去らねばなるまい気がした。そう思うとあの巡礼の日々がとても尊いものとして蘇ってきた。土産屋でお守りやCDなど記念の品物を買い込み、レストランでビールにワインにカニにホタテと旺盛に食事してカミノを祝った。ワインとパンがカミノを導く。

 日が暮れる聖堂

 レイナ橋

 プルポ


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カミノ⑥ PALAS DE REY ARZA MT. DE GOZO(2004/11/10-11/12) [うちゆう宇宙の旅]

PALAS DE REY > 荷物を見直すと、さらにカサとトースト用の網がなくなっていて寂しい。川を下って鉄道の線路の下を通り抜けて山中へ。森林の雰囲気は良い。ポルトガル人ロドリゲスら4人グループに追いつくと、「昨日はオーベルージュにいなかったね、何所に待っていたの?」とニヤニヤ指摘された。いやさすがにホテルは身体は休まるし、BARでの朝食もよくて快調だ。曇り空だが、サングラスがないから助かる、としばらく一人で歩いていると、陽気に手を振るアベックに追いついてそのまま同行。フランチェスコは南のマラガからで、マリアはフランスから。ブルゴスから一緒に歩いているのだという。手を繋ぎながら歩いて、途中止まって花を彼女にさしてあげたり、写真を取り合ったり、ほほえましい。彼は次のPALAS DE REYはプルポ(蛸)で有名だから食べようといってくれて、しばらく楽しみに歩くがこれがけっこう長い。やっと町に着いたら、お金を引き出すとかでしばらく付き合わされるが、やっとレストランへ。引き回したお詫びにということで、SIZZERというリンゴ酒や、ルホという酒をごちそうになる。それに、ワイン・スープ・鳥のから揚げの定食を食べる。そのBARには次々に巡礼が到着してきて知り合いを見つけたりして賑やかになってきた。バルセロナの女性と結婚してスペインに住み、旅に来ているオーストラリア出身の男性とも会った。同じ経度に住んでいたらしいことを聞いておたがい少し懐かしくなったようだ。さて、だいぶ酔いもまわってきたし、カップルも見つめあったりいちゃいちゃしたりたいへんになってきたので、そこを辞してその10km先のポイントを目指すことにする。

CASANOVA> しばらく行くとドイツ人のおばさんベルトリと会って、その先ちょっとのオーベルージュにとまることにした。鍵が閉まっていたが、4時半ごろ開館時間なのか近所の人が鍵を開けに来てくれた。近所に売店もなんもないが、それを知っているかのように、隣の家のおばさんがチーズを売ってきたのでベルトリが買った。まるごと1個。彼女はキャリアウーマンらしい。職業を聞くと「金持ちをもっと金持ちにする仕事」だという。(僕のような)貧乏を金持ちにするのはどうか、聞いてみると、すでに金持ちのものだけが金持ちになれる、んだそうだ。キッチンでご飯を炊いて少しのパンと2人で食べていると、続々と後発の巡礼が到着してきた。なかにはフランチェスコも。皆はポテトやワインを持ってきて僕らの食事と共に大賑わいに楽しくなった。せがまれて、イワンに岩、マリアに聖女、おじさんに侍などとマジックで漢字を書き込んだ。写真を取り合って散会になったが、返礼する気持ちで尺八を持ち出してきて演奏したところ大いに受けた。尺八の音色がものめずらしくて良いのだそうだ。彼女たちもアカペラで歌いだして踊ったりしてくれた。イワンはガリシアのセルティックの音楽も是非聴いてほしいといってきた。

ARZA> 7時起床。建物の外は雨がぱらぱらと降っていたが、しばらく歩いていると小降りになった。イワン・フアン(イワンパパ)・アナ・アナ(アナ友人)の4人とペースが合ってしばらく歩いて、カフェに入って朝食をとる。そこはスペインに来て一番快適と思われるカフェで、品の良さそうな3人の巡礼マダムは泊まっていたそうだ。ご主人が外にオレンジジュースを絞って取ってきてくれたのだが、これが新鮮でじつに美味しかった。 アナ・ガトは9月までマドリッドの空港の貨物センターで働いていて、2ヶ月前に退職したのだが、英語が流暢で助かった。MELLIDでコーヒーとルホをお腹に入れてさらに歩き、途中の小川にかかる橋を越えた景色のいいところでサンドイッチを作って5人で昼食にした。

その後、イワンとつたない英語で一生懸命に話して歩いていたが、イワンは足を痛めて遅れるようになったのでその父子を残して3人となり、トイレで分かれたところでその2人ともはぐれてけっきょく一人で歩くようになり、3時半、ARZAに着いてしまった。オーベルージュではその日一番最初についた巡礼となった。近所の果物屋や雑貨屋で食糧を買い込んで、入り口の奥でビールを飲みながら日記を書いていると、次々に後続の巡礼が到着、やぁやぁ、今日もがんばったねとじつにいい雰囲気。もう少しでゴールだから、一日歩いて疲れても皆も気分が高まっているのだろう。途中のMELLIDからやっと着いたようなのんびりとした巡礼もいるようだが、それより長い距離をすっ飛ばして歩いている巡礼の方が元気満々のようである。夜は、フアンが偵察して見つけてきたレストランに連れ立っていってみると、フランチェスコとマリーも合流して、プルポをいただく。柔らかいし、パンに油を浸しても味わい深い。カルボというスープも旨い。アナたちは、スィートなマリーがお調子者のフランチェスコにだまされているように言うが、彼女自身も辞書を片手にフランチェスコからスペイン語の学習に余念がなく、どちらが上手か?わからない。途中からフランチェスコとアナが討論を始めて皆黙ってしまった。なにごとかと聞きだしてみると、カミノを歩くことがヒロイックなことかどうかなんだそうだ。これが3回目らしいアナにはちっともそうには思えないんだそうだが、フランチェスコはたいへん名誉ある行為であるという。ヨーロッパに一人で来て、皆の4倍もの距離を歩いているよっしーはどうなるのだ、彼は英雄と思っているだろうか、とこちらにも飛び火してきた。フアンが、ルホとチョービットという強い酒で締めて散会した。サンティアゴまであと38km!

 「パンとワインが巡礼を導く」

<MT. DE GOZO> 今日は距離が長いので、暗いうちに出て近くのBARでコーヒーとトーストを。急ぐ割にはしっかり食事を摂るのがスペイン流か。一人で道に出てみたが少し迷ってルートに復帰。ヨーグルトやトマトで途中の補給をして、指痛を再発させないで今日のルートを歩ききれるようにに、木立の中で起伏の少なくなった気持ちのいい道を淡々と歩く。アナ・ガトは樹木の種類についてそれが古来のものであるとかいつ頃移植したものであるとか教えてくれた。アナリスはいつか日本に来たいと話しながら歩く。少しふくよかだけどエクササイズは普段から余念がないだけあって歩くのはけっこう強い。

ST.IRENEのよさげなBARで昼食をとり出発しようとすると、イワン父子がやってきたのでまた飲み直し。ある程度腹が決まっているのか、時間に余裕あるわけでないが腰がすわっている。いくら遅くなっても、引きずって歩くほど遅いイワンの足に合わせて行く、ということだ。

しばらくして出発、石の道標もいよいよ20km台を示す。ハーフマラソンを2時間ほどで走ったことがあるがいよいよ近い。飛行場の近くに行き着くと、GOZO(歓喜の丘)が近づいているようだったがそれからが長かった。とりあえず、またカフェ!ということで、道沿いのおしゃれなホテルに入ってカフェとチョビットを飲み、外も薄暗くなってきたので出発かと思ったら作りたての丸型ケーキが目にとまって、それを一切れということになり食べることにする。この時間感覚・余裕は何なのであろう。まぁ、僕はふだんのせっかちさを見直すいい機会だと思って、この人のいいスペイン人たちと最後まで行こうと思っていたのだが。やっと出発して、サンマルコスを過ぎると陽が沈んで真っ暗になり、イワンの足はますます重そうで、アナ2人も元気がなくなってきた。フアンだけが道を切り拓くように前にと進み僕が続く。途中で木を削ってとうとう手にした杖を手にしていくらか楽になった。

TVアンテナですれ違った車のドライバーにあと少しと聞いたのだが、そこからまた遠く、しかしやっと歓喜の丘に到着した。サンティアゴの夜景が綺麗に見える。オーベルージュの入り口が分からず逡巡するが、やっと入り口を見つけて受付に入ると、夜遅いのにスタッフはとてもよく歓待してくれた。広い敷地に多くの宿泊等が並び、そこそこ多くの巡礼が泊まっていて、皆明日のゴールを待っている。どうやらここはある意味終着のようだ。アナは「WE'VE GOT IT」と肩をたたいて喜んだ。シャワーを浴びて、10時に遅い食事をレストランで取り就寝。明日はいよいよサンティアゴへ。


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カミノ⑤ セブレイロ CALBOR PORTMARINE (2004/11/7-11/9) [うちゆう宇宙の旅]

<セブレイロ> カミノ巡礼路でセブレイロは昔からの難所で、ヴィラフランカではどうしても越えられない巡礼たちは この峠を越える前に巡礼を果たしたと認めていたとも。小指がふくらんで腫れている。朝早くだが、近くに巡礼向けの医療サービスがやっているということで行ってみる。大きい荷物を峠の上の商店に届けられるらしいので、とりあえず1日かけてでも登ってみることにした。病院に行ってみると、日曜日の朝早くから開けてくれたのはありがたかったが、小指を見るなり大きい絆創膏をペタと貼られて OK だいじょうぶ!とのことで唖然。まぁいいさ。荷が軽くなっているのだし。

道はしばらく高速道を仰ぎ見るなどして舗装道路を歩くが、古い家を横に見て、川に架かる橋を渡って山道に取り付くとしだいに坂が急になり、牧草地が広がって周りの山々が展望できるようにある。

上の方で、前日も会ったスペイン人老夫妻に再会した。奥さんは両手にステッキをついているが、二人とも本当に仲が良さそうで微笑ましい。山道で助かる水場が多くある集落を過ぎる。世紀前から続いていたかもしれないケルト人集落である。

峠に登りつく前に、ガリシア州へ州境を越えて、僕はあまり感慨がなかったのだが、スペイン人たちはゴールのある最後の州ということで大喜びしていた。山腹をトラバースして歩くようになると車道を合わせてセルブレイロに。まず、特色ある茅葺きの住居が目を惹く。

 

全て観光用で、みやげショップになっていたりして、観光客が大勢遊んでいる。展示用の一つに入ってみると、原始の暮らしがいかに営まれていたかわかりやすいようになっている。教会を拝して、宿泊するオーベルージュへ。ここは寄付制。人が少ない。後から聞いたが、観光地ですれているから巡礼には人気がないとも。暖炉が嬉しいBARでBOCADINHO(チョリソーサンドイッチ)をかじり、8時で早かったが就寝。

<CALBOR> 一緒に泊まっていた巡礼たちの起床は7時過ぎで早い。40kmを歩くつもりらしい。夜明け前で薄暗かったが、自販のジュースで気合を入れて歩き始める。下りのはずなのに、しばらくは車道沿いで山上を縫うようにして長々と歩く。

足は痛み、追い抜かれるばかりだが、唯一追いついたフランス人は両足をやられているらしく痛々しい。しかし、満面の笑みで挨拶してくれて感銘を受ける。やっと下り始めて、山道をしばらく下ると、山小屋があってそこでベーコンサンドイッチで朝食。カフェコンラテの大きいサイズが嬉しい。ここで後から来たグループにいた日本人女性に声をかけられ2週間ぶりに日本語を使う。さきほどのフランス人が「よく覚えていたな」とからかってきた。彼女はフランスから1000kmも歩いてきたらしい。若い。すごい。足の調子はいまだいまいちだったが、TRIUCASTELAにとぼとぼ長く下り、昼をちょっと回った頃に、小さな集落に雰囲気の良さげなBARがあったのでビールを頼んで昼食を食べていると、後から来た巡礼でたちまち混雑し始め、はじき出される感じで店を出た。ひもとテーピングで足ごしらえをしなおしすと、アルコールが入ったせいもあってか歩けそうだったので、SARRIAまでまだ20kmあったが、ええぃままよ、と先に行くことにする。が、10km過ぎくらいから再び痛み始め、牛の隊列に追い越される。と、ドイツ人のトマス君と会ったので同行する。20歳。8km先のREFUGEEに泊まれるはず、とのことでがんばったがやはりきつかった。やっと到着してみると、全部で5人ほどだったが、後から到着スする巡礼で徐々に小見出し、たちまちベッドがいっぱいになってあふれた巡礼は暗くなったのに先に歩かねばならなくなる始末。ここは周りに売店もなく、食料が調達できなかった僕のために、アメリカ人ケビンが丁寧ににんにくを刻んでトマトソースでパスタを作ったのを分けてくれたたので馳走になる。スペイン人からオレンジもいただく。数日前の彼女にしてもそうだが、同じ巡礼に供するということは大切な功徳なのだと改めて知る。僕などは甘えっぱなしで悪い。

 

ポルトガル人のロドリゲスとも仲良くなった。あんなに巡礼らしい巡礼はいない。リュックの代わりに一人だけずだ袋を背負って歩いていた。写真を撮りたかったが失礼にも感じられて止めた。小さいなからだなのに荷物はズシリとえらく重い。中身を聞くとみんなワインだと言っていた。僕の拙いポルトガル語で、ずいぶん長々と冗談を言い合って話した。日差しの強いヨーロッパでは必需品のサングラスを落としてしまったらしい。安物だったがこの旅のパートナーをやはり寂しい。夜、スペイン人のおばさんが例の小指の腫れたところに糸を針で通してくれた。(看護婦さんでいらしたらしい。それから指はすっかり快方に向かった)

<PORTMARINE> 朝暗いうちに抜け出し、SARRIAの町に出て朝食をとる、新聞を広げてコーヒーを飲んでいると、仕事に行くらしいOLから「読んで分かるの?」なんて聞かれた。サンドイッチの量が多かったので半分を持ち出して歩き始める。曇りで最初肌寒かったが、徐々に雲間から日がさしてきて温かくなってくる。ガリシア州に入って500mおきの道標がはっきりと道を示すようになって、道に迷う楽しみ?もなくなったけど歩きやすくなる。

道も良く整備されているし、両脇には古くから植え込まれていたらしい大樹が風雨から守ってくれている。ベルギー人の女性に追いついてしばらく同行した。18歳と22歳の息子さんがいらっしゃるのだが最近離婚して友人とカミノを歩いている(たしかやはり自宅から)が、サンティアゴに着いたらその先のポルトガルのファティマまで歩くのだという。あのファティマよ、というのでふむふむとうなずいたがそのときは良く知らなかった。しばらくして2人の友人が追いついて興味深そうな視線を集め、挨拶をして別れる。すごい巡礼パワー。3人でフリーな人たちかも。 足の調子も良くて快調に歩いて、昼チョイすぎに大きな川に渡された橋を渡ってPORTOMARINEに入った。

教会を中心にしてアーケードが伸びていてリゾート地ふうに雰囲気が良いのだが、なにせ人が少ないし、寒い。今日はホテルに泊まろうとして、30Eとちょっと高かったので躊躇しながら、いちおう決める前に部屋を見せてもらおうと案内してもらった。いい具合におばさんのお腹が膨らんでいたので「何ヶ月ですか」と聞くと「ただの肥満です」と言われて値切れなくなってしまった。それでも久しぶりの個室とバスとベッドで楽になった。カミノを質素に歩いている人たちにはちょっと後ろめたいが、このような休みはぜひとも必要なのだ。洗濯してしばらく寝て夕方に御飯を食べようと町に出たがとこもやっていない。仕方なく、ホテルのレストランに行くと奥の食堂に通されて一人ぽつんと食事した。魚介スープとメルルーサの揚げ物をいただく。なかなか美味しかった。まぁめでたし。


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カミノ④ レオン アストルガ ヴィラフランカ(2004/11/4-11/6) [うちゆう宇宙の旅]

<ブルゴス> 久しぶりにホテルに泊まって目覚めるとだいぶ体が軽くなったようで、よほど疲れがたまっていたのだと感じる。さらに荷物を減らさねばと反省して2kgほどだが先に送る。こんどは同じ国内だから安くて済み、バス停のカフェで機嫌よく朝食、風から回復するにはビタミンCを、とオレンジジュースを頼む。こちらのジュース製造機は握りこぶしのようなものでオレンジ2個を絞るものでよく絞れて面白い。と、エルシドの墓で有名なカテドラル San Estebanを見る時間が迫ってきているのに気づき、大急ぎで見て回りに行く。ほとんど速足になってしまったが、素晴らしい装飾の前で足が止まって仰ぎ見た。それはやはりダビンチ作といわれるマグダラのマリアだった。

<レオン> この辺りは、カミノでも平原を延々と歩き続ける難所らしいが、バスで数時間で次の大都市レオンに到着する。荷物を預けてサンドミンゴ広場に出ると見栄えのいい建物が目を引く。ガウディの珍しい北スペインでの建物 カサ・ボティネスである。大聖堂Catedral de León は大きく威厳に満ちていたが、残念ながらシエスタのせいでステンドグラスが有名な中が見られなかった。

仕方なく隣りのサンイシードロ教会に入って、人もまばらな薄暗い講堂の長いすに座ってやっと一息ついていると、頭の前の方、前頭葉に違和感を感じる。円形のものを押し当てられているような感じで、頭をずらすとその当てられていると感じられる箇所は同じところで変わらない。何か円形の電波かを照射されているようだ。神秘体験なのか?、と3分ほどその不思議を味わっていると、しだいにそれは頭頂の方に移っていって最後に消えた・・・。何か意識的なものも微かに感じたような。探られたのだろうか。

<アストルガ> バスステーションに戻ってポンフェラーダ行きのバスでアストルガに出て、暖炉の火が暖かい、いい雰囲気のオーベルージュに泊まり、近くのレストランでマス料理を食べて鋭気を養う。今日1日楽したが明日からまた歩くのだ。全長800kmの半分400km以上は歩こうという目標にしたのだった。ここにはまた新しい巡礼者が集まっていた。1日前まで一緒だった賑やかな仲間が懐かしかったが、ここからまた仕切りなおしだ。彼らはまだ200km以上手前のログーニョ辺りなんだろう。

翌朝8時に勇んで出発するが、例によって都市からの出方が難しい。ある程度見当をつけて町を離れてふと振り返ると、杖をついて巡礼者と思われる黒灰色のマントを羽織った大男が追ってきているのが見えたので、この道でよいのかと先に進む。道はそれで良かったのだが、結局その男はそれきり見かけなかった。幻のような人物だった。EL GANSOの手前の原っぱにぽつんとあったベンチで、最後の味噌汁にパンと白チーズ・ハムとで遅い朝食。やはり歩くのは楽しく、快調に飛ばす。

21km歩いて、ふつう泊まることになるRABANALには昼頃に到着してしまったので、道端に構えるBARでビールを飲んで寛いで昼食をとり、後からやってきたスペイン人とアメリカ人を迎える。彼らはもう泊まってしまうらしいが、1日休んだ分、僕はさらに山を越えることにする。

<CRUZ DE FERRO> FONCEBADONの廃墟を過ぎ、投函できずにいた日本への絵葉書をポストに入れ(意外にも1週間後に到着)、さらに登り歩いてカミノの最高点、標高1500mのCRUZ DE FERROに到達する。大きな塔がそびえているが、ここには巡礼者が持ってきたという多くの石がうず高く置かれて支えている。タルチョがはためくチベットの峠(ラー)のようだ。峠とはある極まりであって、そこからまた次の極まりへの長い道のりが続く、ある種の雰囲気があるのだがそのような情緒があった。むかしはかなりの難所でもあったらしい。

しばらく前からずっと巡礼にも会わず心身ともに寒々しかったが、記念に、と尺八を吹く。思えば、尺八を始める機会になった、祖父・伯父・大学時代の友人・本格的に習った師匠の4人とも早逝されて今はいない。その人たちのことを思いながら感謝を込めて吹かせていただいた。遠く離れた外国だが、宗教的な場所だからそれなりに聞いてもらえただろうか。長いこと旅をしてきたが、やっと心からそういう機会を得られて吹き終わって少し安堵した。

山の上で景色が良さそうで、泊まってもいいかなと思っていたMANJARINの小屋も、まだまだ先に行ける!と勢い良く過ぎ去ってしまったが、それから次の宿までが長かった。足が棒のようになり、水も尽き、やれやれの延長戦になってしまった。やっと村落に降りついて、傍らの流水をごくごく飲んでひとごこちついていると、いつの間にかそばに来ていた背のすらりと高いドイツ人の女の子が声をかけてきて、5km先のRIEGOの宿は、此処よりいいからそこまで行かないかという。みょうに意志の強い目で抗しがたく同行することにした。今日3人目の巡礼だった。4ヶ月前にプロのボート選手を引退したので次の人生に向けて、父も歩いたカミノを歩いているのだと言った。オーベルージュに着くと、宿泊はその2人。管理人はガールフレンドがやって来ると、さっさとお先に、と帰ってしまった。料理するから一緒に食べないかといわれたが、なんとなく悪い気がして(というよりいい物が食べたかった!?)、近くのレストランに行くと、なんとそこは管理人のお母さんの経営で、サンドイッチしかないしその値段はちょっと高め。やれやれと宿に帰って久しぶりに日記を書き進めていると、彼女がお茶を入れてくれてお先にと寝てしまった。

<ポンフェラーダ> 翌朝、早起きして今日もがんばるぞと、山道を下りてポンフェラーダの町に向かう。大きな町はかなり手前から見えていて近そうでいて、道は迂回していてなかなか近づかず、かなりへばって城内に入り、広場のBARで遅い朝食をとる。チーズサンドイッチを頼んでカウンターの中の女性を見るとアフリカ系のかなりの美人で、こんなところに、とちょっと驚く。昨日のドイツ人といい、美人続きで旅が華やかに? スペイン語で話をして、気分上々で隣の雑貨屋に行き、水を買い求めたつもりが、残念、フィルムを差し出され、まだまだ通じていない、とがっかり。そこでトマトも買ってすぐにかぶりついて栄養補給。ところが、新興開発中のこの町の脱出口は難しく、長い時間さまよい大きく時間をロスした。やはり、都会のアスファルトの道は分かりにくいし、固いし、排ガスもあって疲弊する。

午後、前日・その日とやはり無理がたたってきたか、足が痛くなってペースが急激に遅くなり、ほうほうのていでCACABELOSに辿りついて町に入る。狭い道の脇の建物の2階からしわしわのお婆さんが僕を見つけてV字を指で示してアケーレ・ドイスと言う。ここから2kmか2時間かと言ったようだったが、その勢いは、わたしゃサンティアゴに2回行った!とでも言っているかのようだった。とにかく励ましてくれたのだろう。

<ヴィラフランカ デル ピエルソ> それからさにら西日がきつくなる中とぼとぼ歩き進み、1ヶ所と思っていた峠も、結局3ケ所ほど越えて、やーっとヴィラフランカの村の入り口にあるオーベルジュに下りついた。ここは巡礼者のボランティアで改築が進み、NHKでカミノを放送した際も取り上げられたそうである。たいへんフレンドリーな方たちが温かく迎えてくれた。暑くないシャワーだが浴びて、コーヒーを飲んで一息つき、早い時間で選択肢が少ない中、シュラスコを定食で出しているレストランに入って食事。とにかくエネルギーを回復せねば。しかし、宿に帰って、痛い足を見て驚いた。左足の小指が小さいサクランボのように真っ赤に腫れあがっているではないか。熟れてポトリト落ちてしまいそうで、これではとても歩けない気がした。


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カミノ③ パンプローナ ロスアルコス(2004/10/31-11/3) [うちゆう宇宙の旅]

<パンプローナへ>翌朝皆まだ寝静まっているが早々に抜け出して出発する。昨日のピレネー越え45kmのペースで何日かがんばれば全長800kmの道のりを中旬まで踏破できるのではないかと思っていたからだ。しばらく行くと、こちらに大きく手を振っている人がいる。まるで待ち合わせた知り合いのように。少なくともその親愛の示し方が日本人のようだったので「こんにちは」近づいてみると外国人のおば様だった。いっしょに歩き出すとテンポがよいので話しを聞くようになる。名前はマルティニ。日本に何度か仕事でもいらしているベルギー人で、退職した後、長年の夢であったカミノになんとブリュッセルの自宅から出発して2ヶ月・1200km!歩いてきたのだという。元バトミントンの国代表だったとも。長距離を歩いてきてさすがにペースがしっかりしていてこの僕?と同じくらい。ぬかるみの登り道で靴の底がわらじをはいたように泥が張り付いて滑りやすくなっても、ストックでそれを器用に落としながらテンポを崩さない。しばらくして天候がかわって小雨がぱらつき、寒くなってきたので遠慮気味のペースを止めて、僕が前に出て、パンプローナの城街に入った。まだ昼ゴロだったが、昨日の疲れだろうか身体はかなりしんどくなっていた。場内のルートが分かりにくく、雨の中を観光局を探してうろついていると、カタルーニャ人だという2人組が声をかけてきてくれた。もう、宿を決めるんだろ。夜のみに行こうぜという。あーーそれもいいかなかぁ!?と、今日は休むことにする。チェックインして2段ベッドに横になったが寝れない。腹がすいたらしい。表に出ると日曜日なのに人通りが少ない。電話ボックスがあったので、この旅行で初めて!日本に電話をかけると2回目で女房が出てしばらくぶりに声を聞いて少し元気が湧いた。牛追い祭りには牛が追われていくのだろう裏通りに入って角の店で定食を頼むとひととおりの料理に加えてワインが1本付いてきた。

一瞬なんだよ頼んでもないのにと思ったのだが、なんとこれがサービスである上に飲んだことがないくらい美味しいワイン。1本飲み干してしまっていい気分で戻ると、続々と到着してきた巡礼者で先ほどはがらがらだった部屋が込んでいて盛り上がっていた。スペイン人には週末のレジャーでもあるらしく、サンセバスチャン・ビルバオ・マジョルカ(アンナ)・サラマンカなど各地から集まり来ていた。

まもなく、VAMOS BEBER ということになって、僕はもう出来上がっていたのだが、再三の誘いを受けて外国人一人ながら皆とまた外へ。家族や友人からひんぱんに電話がかかってくる。僕が今日1ヶ月以上経って初めて電話をした話をしたら信じられないと言われた。カウンターの前にずらっと肉の燻製がたれ並ばされている店から始まって、3軒くらい店を換えながら飲み歩く。僕の名前はスペイン語でよっしーと呼ぶのだそうだ。皆各地方の話を、もちろんハポンを含めて楽しんだようだ。最後にバチャランというリキュールで閉めてフラフラになりながら10時ごろ帰る。と、そこに新たに到着している巡礼がいてしばらくしてまた飲みにいくという。さすがにこれは断った。ふーーー。

<レイナ橋へ> 朝、目覚めると、皆起き出してこれからカフェでゆっくり朝食をとろうよ、となど行っているので、いやいやこれはついていけない、先行くよと先に歩き出す。城内から抜け出るのに迷ったが何とか1本道に出ると目の前の山地を目指し、風力発電のプロペラが並ぶ峠を目指す。登りはまた滑りやすくて転んで手が間に合わず胸から着地して全身どろどろになるし、またその泥が粘質が高くて水で流しても拭いても落ちて辟易する。

車道沿いに立派なホテルを過ごして、あのポーからSOMPORTに抜ける大きな巡礼ルートも合わせる、プエンテデレイナ Puente la Reinaの町に入る。中心の教会は古いまま草が生え、町の出口に架かる橋も古臭く、中心を通る巡礼路も細くかび臭い。観光局だけミョウに新しいのだが。11月になると冬時間に移行したとかで店もやっていず、一番乗りになったユースに入ると、洗濯でもしたらどうか勧められ、かといって温水が出るわけでなかったがわずかな陽射しをあてにして洗濯した。庭で尺八でも、と吹いていると、くだんのカタルーニャ人が着いて再会を喜ぶ。歩いている途中に一度も会わなかったのは、おまえがバスで来たからだろうとからかわれたが、さらに笛の音を聞きつけてマルティニもやってきた。皆昨日あったばかりなのに旧知のような・・・ 夕方になりまた飲みに。多くは今夜帰宅して明日の月曜日には出勤するらしい。これがスペイン流なのか。もう一日何km歩く、というような話ではなくなった気がしてきた。この日もしたたか飲んで最後にバチャランを空けてユースに戻ると、カタルーニャ人はこれからバルセロナへ帰るとのこと。明日はほんとうに仕事なのか!?漢字を書いてあげたりして名残を惜しみ別れる。

<エステーリャへ>
中世には何百万人が過ぎたであろうレイナ橋を渡り出立。しばらくすると、マルティニに追いついて同行となる。いろいろなことを話した。日本は最初に訪れたときから、みるみる身長が伸びて地下鉄の中でどんどん周りが見えなくなったとか。急激にアメリカ化してしまったことが実に残念なんだとか。東京から京都へ、ただ移動するのでなく、松本・妻籠・名古屋と泊まり歩く知日家であった。LORCAの教会前で遅い朝食。最後の一つの味噌汁を味わってもらう。マルティニはフランス語のガイドブックを持っていて、ローマ時代の舗装道路や橋、その前のセルティック(先キリスト時代人)の墓と思われる岩とか説明してくれた。

ワインはこの地方(リオハ)の名産らしい。広いブドウ畑を過ぎ行きてエステーリャに到着する。昨日結局乾かなかった洗濯物を干して一服。町を周遊して帰ってくると後発者が到着。絵を描いていたサラマンカ人やオーストラリア人と歓談して夕方に。パスタを作ってくれるといわれたが外に食べに出て店に入るとマルティニがまるで待っていたかのように居た。風邪をひいたか体がだるく、明日途中からバスに乗ろうと思うと言うと最後の宴になった。料理が美味かったと褒めて帰り、帰ってこんどはスペイン人たちとワインを空けてスペイン語で歓談して別れを惜しむ。

<ロス・アルコス>
喉が痛くてヒリヒリして鼻水も止まらない。マルティニが道の脇からササと出てきてまたしてもしばらく同行する。どうやら用を足していたらしい。途中、前から歩いてきた男とフランス語で立ち話になり僕は前に行く。(後から聞いた話では一度ゴールしてからまたトゥールーズの自宅まで歩いて帰るらしい) これまでとちがって平坦な道が続くようになるが、それはそれで単調できつい。

その名になった岩峰を横に見て、ほどなくロス・アルコス Los Arcos に到着。ここでバスに乗ろう。喫茶して一服して表に出て川岸を歩くと、マルティニが最初あったときと同じように優雅に手を振っているのが見えて再会する。途中から一緒に来たというマリーというフランス人女性を紹介される。(その辺りから よく覚えているのだが)向かいにある教会の頭の上に巣があって、そこに見える白い鳥はアルザスにもいる珍しい鳥なんだと教えてくれた。

その後昼食を一緒にとって、しんみりとしながらいたが、そろそろバス停に行くよとお別れの抱擁をして立ち去った。去り際いろいろと声をかけてくれたがこちらは返すべき言葉が思いつかない。バス停近くのカフェで待っていると、カウンターの反対側にマジョルカのアンナが手を振っていたのでやはりお別れする。どこか元気のない娘だったがあんまし話を聞いてあげられなかった。また、良い巡礼をとなどいろいろ声をかけてくれたが、返す言葉が浮かんでこなくて困る。30分遅れてきたバスに乗りこむと、腕の太い運転手は見慣れない客に興味を示したか、「今日は暑いな」と声をかけてきた。「天気がいいですからね。」と答えると「でも、明日は寒くなるよ」と言い、アクセルを踏み込んでスピード上げた。そうか明日は寒いのか、今日でいったん切り上げてよかったかもしれないと連想していると、突然、行く手の右手の地平の遠くに、並行して歩く一人の巡礼の歩く姿が見えた。マルティニかマリーか!カメラワークのように後ろから前に移動しながら、最初小さなその姿が次第に大きくなっていくように見えた。顔上げて前向きにしっかりと歩いていた。その力強い姿に感動してしばらくボーっとした。次のバス停で、バスに乗る際に少し声を交わした出稼ぎインド人がバスを下りて、僕を探して手をかざしたのでこちらも手を上げて答えた。と、ダメを押されるようにますます胸がつまった。今回あまり感傷的になることはなかったのだが。これらの通りすがりの人たちに思いがけず何かを見せてもらったようだ。バスは、ログーニョまで歩けば1日半の距離を30分で走り、乗り継いで7時にブルゴスに着いた。近くの中華料理屋で牛肉料理をいただき、久しぶりのバスタブで温まって即寝。


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カミノ① ポー セイント・ジーンズ・ペル・デ・ポー(2004/10/28-10/30) [うちゆう宇宙の旅]

<始点探し> フランスのリゾート地、ポー(Pau)に出る。ホテルに入って(高い!)さっそく一部の荷物を分けて郵便局に出かけ、サンティアゴ郵便局宛に送った。隣国とはいえ外国だからか、日本に送るのと500円しか違わず、少量ながらいいお値段! 送り先のサンティアゴまでこれから歩くつもりなのだと話すと、大変なことだとユーモアたっぷりに吹き出された。さて、その後街中を、カミノ(巡礼路)を示す黄色い帆立貝のマークを探すが一向に見つからない。バルセロナでムラカミさんに、町に身支度するショップもあると聞いたのだが、人に尋ねて紹介されたところに遠く歩いていっても傘屋さんでしかない始末(杖を傘に勘違いされたか)。

うーーん。疲れ果てて一度、ホテルに戻ると、なんと壁にフランス中の巡礼路と巡礼のポイントを示す地図が張ってあり、一つのルートは間違いなくポーの町を通過してSOMPRTを超えていっているではないか。「これだ。これ!」と驚喜してホテルのマダムに尋ねると、今はそんな古い道は町では聞いたことがないという。がっかりしながらも、とりあえず、夕暮れのピレネーを眺めて、あの雪の山を越えて行くのだなと腹を決めた。とりあえず滞在費がかさむから節約をと、途中にあった小さい店に夕食用の惣菜を買いによると、前掛けをかけた総菜屋の美しいマダムが、「友人の奥さんが日本人なのよ。珍しいわね。」と声をかけてくれた。英語も流暢だし、ほれぼれするほど格好いい。うれしくなっていくつも惣菜(惣菜といってもフランス料理だし)を買い込みながらわけを話すと、親切にも店にいたお客のマダムにも声をかけて聞いてくれた。彼女たちもやはりカミノについて知らなかっが、そのマダムは近くの本屋に行けば関係の本があるかもと連れ出してくれた。そして本屋で、カミノを始めるべき町がポーではなくて、セイント・ジーンズ・ピエ・デ・「ポー」 Saint-Jean-Pied-de-Portであることがわかった。ポーはポーでも町の名が長かった。ムラカミさーん。でもとりあえずよかった。帰って部屋で食べた惣菜はとても美味しかった。旅立ち前、英語を話したら知らんふりをされるのではと心配していたフランス人は友好的だし知性的だし、とにかくが親切が身に沁みた。

<ついに出発!> バイオンヌ(Bayonne)に一旦出て!、バスでセイント・ジーンズ・ペル・デ・ポーに到着。ここはもうカミノの世界だった。教えられた巡礼事務所にはもう一人アルゼンチン人の30歳の女性と入って、それぞれ「手続き」を受けた。自分の宗教は仏教、目的は歴史的興味と書き込む。目的の一つにはSPORTもあったりするし、けっこう門戸は開け放たれているらしい。彼女に対してはスペイン語、僕に対しては英語で説明を受ける。さらに当座の日本語の案内チラシもあった。彼女はそのまま其処に泊まることにしたが、はやる僕は出発へ。古い狭い石畳の路地を辿って、町の門をくぐり出て、とうとう巡礼を始める。

この、うちゆうの旅もここまで長々と書いてきたが、今までは単なる紀行文だし、本旨を考えたらここから始めるのでもよかったかもしれない。ただ、偶然カミノを歩くことになった(とその時は思っていた)が、日本を離れてからその突端に辿りつくまでをこうして振り返ってみると、ああして歩くことになったんだなとよく振り返れました。

 ピレネーの望む

町を出て最初の坂を迎えると、減らしたとはいえ まだまだ重い荷物に参った。水を加えておよそ25kgはあったろうか。10月末だというのに、陽が当たればまだ暑いし、風が吹けば今度は汗が冷えて寒い。ピレネーを越えるべく上に行けば行くほど風は強くじつに処し難い。道は放牧地を行くようになって景色が開け、3時間ほど歩いて最初の宿泊地ORISSONのロッジに入った。個性的なバスク文字が躍るこの山荘で快適に寛ぐ。田舎料理なのかもしれないが、巡礼者向けと思われる大きな皿においしい食事をたくさんいただいた。巡礼者とは歓待されるべきものなのか!

<ピレネー越え!> 翌朝8時に出るがまだ真っ暗。風が吹きすさんでいる。国境に近い山地は、朝日が昇ってくると、野鳩狩りだという銃声が鳴り響き、遠くで打たれたらしい鳩の羽が舞い落ちてくる。巡礼中だし?冥福を祈ることにする。ここ数年、両親を連れて四国やら高野山やら旅行に行っていたのだが、あまり信心をもって訪れていただけではない。巡礼とはいかなる心地で行けばいいのだろう。そういう心地で歩けばいいのだろうかと思いながら歩を進めた。

国境近く、いろいろな道が交錯してくるが迷わずに済み、十字架があるところから静かな木立の中を進み、スペインに再び入境した。つかの間のフランスだったが、巡礼の目的のおかげもあったのかもしれないが、今までのスイスやイタリアではなかった親しみの情を示されてこちらが惑うほどだった。

森の中をぐんぐん下るようになり、かなり歩いてロンセスバリェス RONCEVAUXに下り立つ。市民戦争時にあのヘミングウェイが住んでいて、映画「誰がために鐘はなる」ゆかりの地らしい。帰ってからその映画も観た。

週末ということもあって観光客が多く、とどまりづらかったせいか、歩く勢いがついたせいか、さらに歩くことにする。しかし、次のポイントは22km先。国境を25kmほど歩いた後どうしてそのような気になったのか。歩き始めで距離感に疎かったのだろうが、その後すぐに重いザックは肩に食い込んでくるし、相当無理をすることがわかり後悔した。昼を過ぎてRONCEVAUXを発つ時間も遅いから、他に誰も見かけない。状況が悪いのがわかって、さらにハードに進んでいく。と、人のいないはずの道の先で観光客らしいカップルがけっこう激しくキスをしているのに出くわしてお互いビックリ。ああいうときは男はあわて、女は冷静なものなのか。しかしかまってもいられない。「SORRY。GO ON!」となおも行くと、山ろくから上がって山道を辿るようになった。

喉が渇いたというのに水を入れたペットボトルを落としてしまって渇きでフラフラしてくる。そして、陽も傾いて薄暗くなってきたそんなとき、広い道の片隅にあるある石碑を通り過ごそうとして、もしかしたら山上でありえない水場かという思いもあってか、引き寄せられるようにそれに辿りつくと、なんと日本人の墓だった。60歳を過ぎて巡礼を目指されたのだろう。やはり今の自分のようにスタートしてムリをされたのか。しかも最近らしい。瞬間、呼ばれたかと思ってゾッとしたが、励まされたのかもしれないと思い、あなたの分も巡礼させていただきますと手を合わせて立ち去った。中世の巡礼の盛りには多くの人が巡礼途中で力尽きたらしいし、代わり参る(代参)ということも行われていたらしい。。。巡礼とはこういうものなのか。肉体的な疲れが増してくる一方、精神的にはそのようにだんだんと研ぎ澄まされていくのを感じた。

ZUBIRIという町に近づくと、朝RONCEを出たらしい先行の巡礼者たちをちらほら追い越すようになり、売店が一軒しかない小さな町に着いた。オランダ人が番をするドミトリーに荷物を下ろし、イタリア人の年配女性二人と粗末な夕食を取る。2人はワインを馳走してくれた。巡礼同士がそうして分け合いながら行くものらしい。建物の外で今回初めて、持参した尺八を吹いてみると、皆褒めてくれた。と、どうも臭う、あの臭い・・・と思って振り返るとイタリア人の片方がマリファナをやっていた。連れ合いに聞いてみると、わけありの旅・巡礼のようだ。あんなに陽気そうだったが。まぁ、お遍路をだってそうだが、巡礼なんて わけありでないほうがおかしいかもしれない。


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スペイン① バルセロナ サラゴサ (2004/10/23-10/27) [うちゆう宇宙の旅]

夜行でミラノを発って、ニース・カンヌやマルセイユ・モンペリエを過ぎてバルセロナに朝着。ミラノ駅で席に座る際にウィンクしてくれた前席の中南米系の女の子がいたのだけど、途中のフランスからスペインへの国境駅で見回りに来た警察に手厳しく降ろされていった。ミラノで家族に見送られていたようだったが不法移民だったのか。あの笑顔は何かを奮い立たせていたのかもしれない。なにか切ないかんじでのスペイン入りだったけど、地下鉄を乗り継いで、日本人の常宿に入る。まるで日本にいるようなところで、ふーー、1ヶ月ぶりに大いに寛ぐ。外の空は青く澄み渡り、歩く人も皆笑顔があふれて開放的。ミラノのあの陰気なとげとげしさは何だったのだろう。これははまる。厳寒のチベットから新緑のネパールに抜けたときの解放感に似ている。さっそく市場 Mercat de la Boqueriaに出かけて腹ごしらえをするとする。ソーセージにタコにパスタ、もちろんビール、と全部で6E?安い!なに?美味い!即日この街を気に入った。

 mercado

翌日はガウディ・デー。Sファミリアへ。見れば見るほど奇天烈。市民の寄付などで一年一年完成に向かっているという。森・海・昆虫・貝などなど、さまざまな自然がモチーフに使われていて奥深さと楽しさと満喫できる。彼曰く「自然界に直線はない」。

 forest

午後はグエル公園へ。発想の独創性とセンスの良さに驚かされるばかり。他にもピカソやダリなどの天才たちがこの街から輩出している。路地裏ではクラッシックアンサンブルの合奏が催されていた。今回の旅で初めて未来を感じさせてもらった街だ。

 parke

その夜は、カンプノウで中3日のバルサ戦(リーグ戦)を観戦。イタリアと同じようにチケットを心配していたら10万人入るからまったく心配ないとのことだった。親子連れなどがふつうに多く、イタリアに比べてなんと平和な観戦風景であったろうか。またまたロナウジーニョの活躍!わかっているのに止められない。

3日目、モンセラットへ。カタルーニャの守り本尊・黒いマリア像を拝観した後、奥の山地へ歩き出す。ドロミテ以来久しぶりの山歩きが楽しい。誰も歩いていない最奥への道を辿り、僧院跡に着くと、北側の岩壁が切れていて絶景を望むことができる。楽しい。むかしの修道士たちはここで瞑想していたのだろうか。キリスト教では瞑想の習慣がなかったようだが、そうあったように思わせる気に充ちていた。

 landview

夜は宿の皆で海鮮パエージャをメインに豪勢に食事しに出かける。ワインに、生ハムも子羊も何を食べても美味しい。ビバ・エスパーニャ!

さて、当初の考えでは、ここらでレンタカーしてイベリア半島を悠々一周と考えていたのだが、宿で、それもそれなりに偶然と思うが、カミノを歩いてきたばかりというムラカミさんという方にお会いした。あまり詳しくは聞けなかったが、なんとかポーという町から巡礼を始められるという。モンセラットを歩いてやはり自然の中を歩きたいと思っていた僕はカミノを歩くことに決めた。とりあえず、そのポーというところまで行ってみよう。だめなら確かにルートがありそうなパンプローナに戻ればいい。

ということで、巡礼向けに重すぎる荷物を減らし始めつつ、その夜は、BARやフラメンコに若者たちを連れ出してバルセロナ最後の夜を遅くまで楽しんだ。3Eのフラメンコはあまりに安くてかなり内容を怪しんだが、さすがスペイン人、手抜きなしの真剣勝負の舞台で大いにエッセンスを楽しめた。

バルセロナはほんとうに去りがたかった。宿に1ヶ月居る人もざらにいるというがわかる。けれども僕は「沈没」したくない。もう一日、というのを押し殺して次の日、サラゴサに向かった。ばかでかくてあきれさせられたサラゴサ駅でホテルを紹介してもらい、街中に聖母で有名なプラール寺院を見学してくる。イスラム様式をあわせもつ寺院の中は敬虔な信者ばかりで厳かな空気に支配されていて少々圧倒された。ここスペインは信仰の国でもあるのか。これから辿ろうとしている中世からの信仰の道というのはどんなものなのか、宗教も違う自分が巡礼することにどんな意味があるのか、また、どんなできごとが待っているのだろうか。

 quiet

翌朝、サラゴサ駅から、その巨大さにまったく似つかわしくない、一両の田舎電車でトコトコと出発し、朽ち果てた廃墟のようなカンフラン駅に出て、バスに乗り換え、国境のSOMPORT峠を越えて、フランス側ORORONへ。途中、ピレネーの素晴らしい雪景色が見渡せた。どうもこの道に並行してカミノ(巡礼路)の一つのルートがあるらしいのだが、厳しい寒さが見て取れ、これは歩き返して山を越えてもう一度スペインに入るのは無理かもしれないと思った。  in winter?


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イタリア② ピサ ジェノバ ミラノ (2004/10/18-10/22) [うちゆう宇宙の旅]

ピサといえば斜塔。かつてはジェノバ・ヴェネツィアに次いでイタリアで3番目に大きい港であったとか。斜塔に向かって適当に方向を定めて市街をうろうろ歩いていくと、道の向こうに突然塔が見えて、それがちょうど傾きも良く見えて感動、しばらく目が釘付けになる。ダビンチが振り子の法則を見つけたという後ろの聖堂も見る。

ジェノバでは大きい駅が2つあり、それを知らず、大いに道に迷ってあらぬ方の住宅地で逡巡させられた。展望エレベータで山上に上って大型客船が何隻か停泊する港を見渡した後、ブランコ宮(城の宮殿)を見ながら、重厚な建物が立ち並ぶ港町へ。海際は薄暗いアーケードどおりになっていて特有の怪しげな不穏な空気が漂う。港上に伸びる何本もの石畳の狭い古い道は中世の面影を漂わせた。港上には立派な大きい銀行が多くあったから、港の貿易で得た富が、それらの道を通ってどんどん上の銀行に集金されていったのであろう。登り返した坂の途中で食べたジェラートが美味しかった。

 エレベーター上から

素晴らしいアーケードのミラノ駅に着いたのは6時過ぎで帰宅ラッシュさなか。ユースの住所の片端しか知らず、どこにあるかも分からないで路線図の前で、こんなことをいい年こいていつまでもやってられないよなぁ、とでかいザックを背負ったまま立ち尽くしていると、数百もあろうかという細かい字で書かれた街の名前から奇跡的にも一つの町名が浮かび上がって其処だとわかる。やれ助かったと地下鉄で向かう。今までにない大都市で、皆早足だし、地下鉄も山手線並みに次から次へやってくる。下車駅でタクシーで向かおうとすると近いから歩けと言われ、小雨の薄闇の中を歩いたらこれがえらく遠かった。やっと探し当てたユースの受付もまた横柄。まったくやれやれであった。そして次の日地図ないまま大都市に繰り出したところ迷いまくって参ったが、なんとか目的地に歩きつき、基本的に予約制なのに、ラッキーにも当日に「最後の晩餐」を、かなり長い間、しかも一人で見ることができた。どうも遅く着いたなりに混雑の合間にもぐりこめたらしい。「コード」を読んだあとだからイエスの左となりも人物はじつに女性にしか見えないなぁ。天才は同じモチーフでこの絵を何度も描いているようだがいったい何を表したかったのか、頭でこねくりまわしながら近くのダビンチ技術館も楽しむ。夜、食堂で山のように買ってしまった葡萄を食べるのを「手伝うか」と同じような一人に話しかけると長話になった。スウェーデンからやってきてイタリア中を布教している宣教師らしい。「コード」は読んでいなかったらしく、ストーリーを話すと首をふってあり得ないと繰り返すのでかわいそうになって続きを話すのをやめた。彼はキリスト教世界での不平等の是正・信仰の実践の大切さを訴えているようだった。曰くイタリアではちっとも物乞いが減らない。おたがい久しぶりの話し相手だったのか3時間くらい話した。合い部屋に戻ると、こんどはイタリア人の若者から話しかけられた。NYの親戚を尋ねたこともあり、英語も流暢。彼はミラノの獣医大学に通っているのだが、驚くことにミラノの家賃が高いのでユースに月火水と3泊して(連泊は3泊まで制限されている)、木の夜に夜行でシチリアの家に戻って金土を過ごし、日曜日の夜行でミラノに戻ってくる生活を3年過ごしている!のだという。ベッドの場所は毎回変えられるし、そして、さらに3年やるのだという。ミラノは人が好かないと寂しそうだったが、僕はこういうタイプのイタリア人もいるのだと感心した。日本にも相撲を見に行きたいと気さくに話してくれた。

次の日は苦労してGETしたチケットでCLミランvsバルサをサンシーロで観戦。スタジアムに入るとすぐに練習するシェバとジダが分かえる。殺気だった凄い声援のなか、そのシェバのゴールでミラン先勝。ミランサポーターと勝利を分かち合う。しかし、ロナウジーニョを中心に展開するアウェイ=バルサの攻撃もなかなか見事だった。ただ、翌日の新聞トップはバレンシアに5-1で激勝したインテルの方。うなだれるカニサレスが痛々しい。ミラノを夜行で離れる日、なんといきなり朝から全交通がストライキ。地下鉄はシャッターを閉め、道路も市電・バスがなく乗用車のみ。駅までどう行ったらいいのか心配していると午後数時間だけ動くことになったとのこと。なんとか移動して最後にドゥーモを観光。イタリアではかなり振り回されっぱなしだった。セリエAの中田や中村が去ることになったのもそんなせい?芸術は素晴らしいし、どこか憎めないが、マンマミーヤ、付き合うのは大変だ!

 カカはだいじょうぶ!?


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