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初沖縄 親孝行 「古城」ボランティア [尺八のこと]

沖縄に行ってきました。保護者付き・・・ 小笠原は6日の行程でしたが島の滞在は正味3日でしたから、今回は5日の行程で滞在が4日以上と、長く居た感じがしました。初めて赴いたのですが、島の情緒・国際通りのインパクトなど、やはり行ってみないとわからないものですね。あまり天気には恵まれませでした。特に沖縄最深部のやんばるを巡る3日目に降られたのは残念でした。最終日は南部の戦跡を巡ってきましたが、せつない感じになりました。激烈な戦争・戦後を過去に、今はたしかに微妙にゆるいテンポの時間が流れていました。噛み応えのありそうな濃厚な文化のにおいがします。歌謡・舞踊・絵画・陶器・織物などなど、芸能人・芸術人の国なのです。内地から来た人は日本人なんだそうです(さらに離島では本島人を沖縄の人というらしいです)。食べ物についてですが、幸か不幸か、大げさな流通がないので新鮮なものが相当美味しくいただけます(特に黒糖の栄養価は見直しました)。これは流通を整備してしまったがゆえに、新鮮なものはほとんど食べれない状況に陥った我々にはうらやましい限りです。食も文化ですが、日本人というのは彼の地に対して、まったく文化(の良好性)について誇りがないかのようでもあります。日常生活に根付かせてこそ文化。近い国とよく比較してみると、その文化の近接性ゆえに、こちらでは当たり前になってしまったことでもすごく歪(いびつ)に見えたりします。近隣、そして最近よく行っている利尻・屋久・小笠原・四国などの島々にはそうしたヒントがあふれている気がします。

 南国の青い空

 シーサーさん

◇3月1日-5日 1日 午後便で那覇空港に到着してレンタカーを借りて町に出ようとナビに従って行くといきなり曲線の多い街に入りました。日本とは違う!といきなり実感・・・ ぐるぐるしたようにしてやっとホテルに入りました。飲酒したいのでモノレール(ゆいレール)で牧志に出て国際通りを歩きました。木曜日でしたので、平和通り・公設市場とも人ごみがあるほどではありませんでしたが、魅力的な商店・商品であふれていました。夕飯前の黒糖を入れた揚げたてのパン(サーターアンダギー)の美味しかったこと。夕食は「波照間」というところで民謡ライブを聞きながら、泡盛(ニコニコ太郎(!)という銘柄)でラフテー・豆腐ようをいただきました。ゴーヤチャンプルーのゴーヤが柔らかい! ウチナチューの口笛にのってライブが進んで、親父も立ち上がって踊ってすっかりご機嫌になって、店を出てからもふらふらして国際通りを歩いて、駅までの途中、ブルーシールのアイスをおごってくれました。これがうめえです。2つともバニラでしたが・・・

2日 翌朝は、小雨の中、まず首里城へ。沖縄戦で日本軍が司令部を置いたため戦後は廃墟になってしまったそうですが中国のような城壁・八角形に削った石を組み合わせた石畳が印象的でした。それと王室の墓地である王陵(たまうどぅん)も巡りました。高速で北上してコザ・嘉手納・読谷を経て琉球村で食事して(ここでも民族舞踊あり)古民家を見てまわりました。名護を過ぎて本部の備瀬という伊江島・瀬底島が望めるところに宿泊しました。

 修復途上の首里城

 南国の花満開

3日 広い室内でパンと珈琲で朝食をとり、海風に強いということで植えられた、美しいフクギ並木を歩いて、今帰仁(なきじん)の城址を散歩。こういうところではお袋の白帝城・・・の詩吟つきです。古宇利島へドライブして昼食は「前田食堂」でいただきました。肉そばで有名なんだそうですが、ここでいただいた豚足(テビチー)は見た目にギョッとして、食べるところもゼラチンだけとはいっても、その美味しさは納得です。その後、雨の中、山原(やんばる)に入りました。めくるめくイタジイの森林。これまた世界遺産登録への動きがあるようですが、妙な「味付け」は不要のすばらしい森林でした。ヤンバルクイナは見られませんでしたが、急傾斜を下ってタナガーグムイの淵、サキシマスオウノキを見ました。美しいマングローブ林を見たりしながら東側の長くドライブして名護を出て、パイナップッルパーウクの売店でパインアイスを食して備瀬に戻り、一風呂浴びて海を見渡す丘にある「花人逢」にピザを食べに行きました。

  崖をくだると秘境が まさに山の原

4日目は中城で中村家と城址を見学して、浦添に出てソーキそばの昼食をとって、市民球場でキャンプ中の母校野球部の見学をしました。目当てはもちろん斉藤君で、しっかりランニングしてました。ところで、それにしても沖縄にはいたるところにお墓が多いです。霊園がなさそうです。そしてまた、自宅と同じほどお金をかけるとも!最後の晩を過ごす安里の「沖縄第一ホテル」にチェックイン。しばらく休んで夕方に壷屋やむちん通りから再び市場に出ておみやげの買い物。かりゆし服を買い求め、喪服もと思いましたがそれほど安くなく断念。市場2階のツバメ食堂で沖縄料理を満喫。連日で食傷気味とはいえ、最後と思うとまた食欲旺盛になって刺身盛り・イカ墨汁など堪能しました。旨い!気分よく国際通り沿いの泡盛の店にいって試飲をしまくまりました。

 ペリーも訪れたという中城

 中城から東側を望む

5日 最終日は第一ホテルの名物の豪華な朝食を楽しんで、先ず南風原を経て斎場御嶽(セイファーウタキ )という沖縄第一の聖地に拝み出ました。以外にお参りする方々が多かったです。 清清しい空気に気分が良くなって辺りを歩き回りました。さて、南部は沖縄戦の激戦地となってしまいました。日本軍が本土決戦までの時間を稼ぐために南部の石灰の洞窟を目当てに退却して白兵戦に持ち込む決断をしたからです。そこで、もともと疎開していた大勢の民間人を巻き込んで(洞窟を追い出したり、食料を奪ったり、自決を求めたり)、悲惨な多くの犠牲者を出したのです。民間人を保護するどころか、作戦に巻き込んだことは戦争の狂気・日本人の失策として自覚が強く必要だと思いました。戦争犠牲者は日米20万人のうち、市民の犠牲者がその半数に迫るという史実・・・ひめゆり平和記念資料館で元ひめゆりの方が淡々と話されていました。徐々に広がる人の輪。「誰もがお母さんに会いたいと言うのを我慢していました。とうとう、そう言った***さんは亡くなっていました。」きっと辛いことであるはずなのに。その緊迫感にさすがに携帯カメラをかざす人も一人もいませんでした。ひめゆり犠牲者の一枚一枚の写真とプロフィールが紹介されている大部屋もありました。もうひめゆりの方々も80歳を超えてきていらっしゃいます。ここと平和記念公園で数日を過ごして戦争の悲惨さ・聖戦の欺瞞を身に沁みこませるという教育もありかなと思います。また、軽視されがちな、他人の命・自分の命について考え直すことができるかもしれません。最後は、漁港のある糸満を経て車を返却して空港に送ってもらい帰ってきました。泳ぐにはまだ寒いオフシーズン・平日なのに見たことがないくらいの大混雑でした。外国人の観光客も多く見かけましたが、人気のある観光地なのですね。最盛期にはどういった繁盛になっていることやら。持っていったCDを聞いてドライブできたのはよかったのですが、沖縄ミュージックを忘れてしまいました。現地ではかなり高いのでこちらで音源を用意していったほうがいいかもしれません。

 人なつこいイソヒヨドリ

 光の先には何が・・・

 またメンソーレ(いらっしゃい)。

◇2月24-28日  24日、録りためていた映画、「シカゴ」「グリーンディステニー」「80日間世界一周」を見て過ごしました。シカゴはなんか倫理的に納得いかない感じでしたが、まぁ、彼の地はそういうところなのでしょう。他の2本はいちばん最後・エンディングが不思議な感じでした。瑞々しいチャンツィーの演技が印象的でした。25日 退院間近のお義父さんを見舞いに三浦に。2度目だとだいたい地理感もたしかになってきました。帰途、秋谷で小ぎれいなイタリアンでピザとパスタを食べした。26日-28日 楽譜作成ソフト「PrintMusic2006」を入手しましたので、当座必要ないくつかを移調したりして手直ししました。インターネットで入手したMIDIファイルから楽譜に起こして演奏することもできるのですね。びっくり! ただ、細かい操作がわからないのでやはりハウツゥーものに頼ったほうがよさそうです。FINALEを買ってしまいました。そうして28日、Sさん主催のS老人ホームでの唄う催しで、Tさんのギター伴奏で演奏しました。ひな祭り・四季の歌から上を向いて歩こうまで13曲・1時間。5-6人がお年寄りについて唄う補助をさせていただきます。そして、尺八はかなりインパクトがあったようです。「古城」をソロで吹くようにリクエストをいただきました。竹管で音色よく吹いたかいがありました。終わって、スタッフ皆の充実した顔色がとてもよかったです。やっぱし、こういうのっていいなぁ~


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