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カミノ① ポー セイント・ジーンズ・ペル・デ・ポー(2004/10/28-10/30) [うちゆう宇宙の旅]

<始点探し> フランスのリゾート地、ポー(Pau)に出る。ホテルに入って(高い!)さっそく一部の荷物を分けて郵便局に出かけ、サンティアゴ郵便局宛に送った。隣国とはいえ外国だからか、日本に送るのと500円しか違わず、少量ながらいいお値段! 送り先のサンティアゴまでこれから歩くつもりなのだと話すと、大変なことだとユーモアたっぷりに吹き出された。さて、その後街中を、カミノ(巡礼路)を示す黄色い帆立貝のマークを探すが一向に見つからない。バルセロナでムラカミさんに、町に身支度するショップもあると聞いたのだが、人に尋ねて紹介されたところに遠く歩いていっても傘屋さんでしかない始末(杖を傘に勘違いされたか)。

うーーん。疲れ果てて一度、ホテルに戻ると、なんと壁にフランス中の巡礼路と巡礼のポイントを示す地図が張ってあり、一つのルートは間違いなくポーの町を通過してSOMPRTを超えていっているではないか。「これだ。これ!」と驚喜してホテルのマダムに尋ねると、今はそんな古い道は町では聞いたことがないという。がっかりしながらも、とりあえず、夕暮れのピレネーを眺めて、あの雪の山を越えて行くのだなと腹を決めた。とりあえず滞在費がかさむから節約をと、途中にあった小さい店に夕食用の惣菜を買いによると、前掛けをかけた総菜屋の美しいマダムが、「友人の奥さんが日本人なのよ。珍しいわね。」と声をかけてくれた。英語も流暢だし、ほれぼれするほど格好いい。うれしくなっていくつも惣菜(惣菜といってもフランス料理だし)を買い込みながらわけを話すと、親切にも店にいたお客のマダムにも声をかけて聞いてくれた。彼女たちもやはりカミノについて知らなかっが、そのマダムは近くの本屋に行けば関係の本があるかもと連れ出してくれた。そして本屋で、カミノを始めるべき町がポーではなくて、セイント・ジーンズ・ピエ・デ・「ポー」 Saint-Jean-Pied-de-Portであることがわかった。ポーはポーでも町の名が長かった。ムラカミさーん。でもとりあえずよかった。帰って部屋で食べた惣菜はとても美味しかった。旅立ち前、英語を話したら知らんふりをされるのではと心配していたフランス人は友好的だし知性的だし、とにかくが親切が身に沁みた。

<ついに出発!> バイオンヌ(Bayonne)に一旦出て!、バスでセイント・ジーンズ・ペル・デ・ポーに到着。ここはもうカミノの世界だった。教えられた巡礼事務所にはもう一人アルゼンチン人の30歳の女性と入って、それぞれ「手続き」を受けた。自分の宗教は仏教、目的は歴史的興味と書き込む。目的の一つにはSPORTもあったりするし、けっこう門戸は開け放たれているらしい。彼女に対してはスペイン語、僕に対しては英語で説明を受ける。さらに当座の日本語の案内チラシもあった。彼女はそのまま其処に泊まることにしたが、はやる僕は出発へ。古い狭い石畳の路地を辿って、町の門をくぐり出て、とうとう巡礼を始める。

この、うちゆうの旅もここまで長々と書いてきたが、今までは単なる紀行文だし、本旨を考えたらここから始めるのでもよかったかもしれない。ただ、偶然カミノを歩くことになった(とその時は思っていた)が、日本を離れてからその突端に辿りつくまでをこうして振り返ってみると、ああして歩くことになったんだなとよく振り返れました。

 ピレネーの望む

町を出て最初の坂を迎えると、減らしたとはいえ まだまだ重い荷物に参った。水を加えておよそ25kgはあったろうか。10月末だというのに、陽が当たればまだ暑いし、風が吹けば今度は汗が冷えて寒い。ピレネーを越えるべく上に行けば行くほど風は強くじつに処し難い。道は放牧地を行くようになって景色が開け、3時間ほど歩いて最初の宿泊地ORISSONのロッジに入った。個性的なバスク文字が躍るこの山荘で快適に寛ぐ。田舎料理なのかもしれないが、巡礼者向けと思われる大きな皿においしい食事をたくさんいただいた。巡礼者とは歓待されるべきものなのか!

<ピレネー越え!> 翌朝8時に出るがまだ真っ暗。風が吹きすさんでいる。国境に近い山地は、朝日が昇ってくると、野鳩狩りだという銃声が鳴り響き、遠くで打たれたらしい鳩の羽が舞い落ちてくる。巡礼中だし?冥福を祈ることにする。ここ数年、両親を連れて四国やら高野山やら旅行に行っていたのだが、あまり信心をもって訪れていただけではない。巡礼とはいかなる心地で行けばいいのだろう。そういう心地で歩けばいいのだろうかと思いながら歩を進めた。

国境近く、いろいろな道が交錯してくるが迷わずに済み、十字架があるところから静かな木立の中を進み、スペインに再び入境した。つかの間のフランスだったが、巡礼の目的のおかげもあったのかもしれないが、今までのスイスやイタリアではなかった親しみの情を示されてこちらが惑うほどだった。

森の中をぐんぐん下るようになり、かなり歩いてロンセスバリェス RONCEVAUXに下り立つ。市民戦争時にあのヘミングウェイが住んでいて、映画「誰がために鐘はなる」ゆかりの地らしい。帰ってからその映画も観た。

週末ということもあって観光客が多く、とどまりづらかったせいか、歩く勢いがついたせいか、さらに歩くことにする。しかし、次のポイントは22km先。国境を25kmほど歩いた後どうしてそのような気になったのか。歩き始めで距離感に疎かったのだろうが、その後すぐに重いザックは肩に食い込んでくるし、相当無理をすることがわかり後悔した。昼を過ぎてRONCEVAUXを発つ時間も遅いから、他に誰も見かけない。状況が悪いのがわかって、さらにハードに進んでいく。と、人のいないはずの道の先で観光客らしいカップルがけっこう激しくキスをしているのに出くわしてお互いビックリ。ああいうときは男はあわて、女は冷静なものなのか。しかしかまってもいられない。「SORRY。GO ON!」となおも行くと、山ろくから上がって山道を辿るようになった。

喉が渇いたというのに水を入れたペットボトルを落としてしまって渇きでフラフラしてくる。そして、陽も傾いて薄暗くなってきたそんなとき、広い道の片隅にあるある石碑を通り過ごそうとして、もしかしたら山上でありえない水場かという思いもあってか、引き寄せられるようにそれに辿りつくと、なんと日本人の墓だった。60歳を過ぎて巡礼を目指されたのだろう。やはり今の自分のようにスタートしてムリをされたのか。しかも最近らしい。瞬間、呼ばれたかと思ってゾッとしたが、励まされたのかもしれないと思い、あなたの分も巡礼させていただきますと手を合わせて立ち去った。中世の巡礼の盛りには多くの人が巡礼途中で力尽きたらしいし、代わり参る(代参)ということも行われていたらしい。。。巡礼とはこういうものなのか。肉体的な疲れが増してくる一方、精神的にはそのようにだんだんと研ぎ澄まされていくのを感じた。

ZUBIRIという町に近づくと、朝RONCEを出たらしい先行の巡礼者たちをちらほら追い越すようになり、売店が一軒しかない小さな町に着いた。オランダ人が番をするドミトリーに荷物を下ろし、イタリア人の年配女性二人と粗末な夕食を取る。2人はワインを馳走してくれた。巡礼同士がそうして分け合いながら行くものらしい。建物の外で今回初めて、持参した尺八を吹いてみると、皆褒めてくれた。と、どうも臭う、あの臭い・・・と思って振り返るとイタリア人の片方がマリファナをやっていた。連れ合いに聞いてみると、わけありの旅・巡礼のようだ。あんなに陽気そうだったが。まぁ、お遍路をだってそうだが、巡礼なんて わけありでないほうがおかしいかもしれない。


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