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待望の稲刈り@能生 [うちゆう宇宙の旅]

◇月末能生へ。秋になって、稲は予想以上に逞しく育っていて、鎌でサクサクと刈れて楽しかった。雨で地盤がゆるんだか農道で乗用車が脱輪というハプニングも。この地で2輪はむずかしいだとか。3日間かけて無事、刈り取り・はさ掛けといった作業を終わらせて、最終日は少々の散歩や昨日は白山神社のお参りできた。収穫は楽しい。ドイツ人のKさんも、スイス人のPちゃんも楽しんだようだ。外国の方々、和食のみの食事が続けざまになると ふつうの日本人?だってパンやコーヒーにそろそろ飢えだすのに、2日間ずっとなんのオプションもなく日本食で通すのはすごい。Pちゃんはお茶くみやおにぎり作りを嬉しそうに習っていた。今月末帰ってしまうんだそうだが。村のおじさんたちにも村に来た最初の外国人?として大人気だった。米は天日干しで相当干して、食べられるのはまだ1ヶ月くらい先になりそうだ。

力強く実った稲


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盂蘭盆会お手伝い [うちゆう宇宙の旅]

◇夜寝れなかった。暑さのせいでもなく、夕飯の後食べた砂糖たっぷりのケーキのせいでなく。おそらく。昼聞いたお経のせいではないかと思っている。日ごろお世話になっている 茅ケ崎のお寺のご住職からお声がけいただいて、盂蘭盆会のお手伝いに出向いていたのだが、その法会でクライマックス的に読まれたお経がなんとエネルギッシュであったことか。一緒に手伝われていた方が仰るにこの 理趣経が読まれることは非常に珍しいんだそうだ。また後で和尚さんが言われたことに 若いお坊さんが多いと自然と早く・熱がこもるんだそうだ。それにしても凄い迫力だった。昼下がりの眠い時間であろうに、目をつぶっていても頭が冴えに冴えてきた。辞書をひくと、「万物の本体が清浄であることを明らかにし、即身成仏の教義を説く。欲望肯定的傾向が強いといわれる」お経なんだそうだ(最澄との間でイワクがあったお経であったか)。しかしなぜ、お盆に読まれるのだろう。これも聞いた話、このお盆の時期は餓鬼をはじめ諸霊がうようようるんだそうで、それらを吹き飛ばしてしまおうという狙いとか。 施餓鬼ということもあって、たくさんご馳走になってしまった(食べる修行?)。お手伝いにいらしていた方々からも旧知のようにお話くださり、また、他のお坊さん方も 何かいい意味で無頼な実に感じのよい方々であった。仏教・密教の奥深さ・力強さ・取り巻く方々を含めてその魅力を改めて感じさせられた。この秋は高尾山に火渡りに行こうかな。

  恐山


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「異次元に立て」本当の生き方 [うちゆう宇宙の旅]

◇おととい、図書館で見つけた「異次元に立て」という本を、タイトルに惹かれて借りていたので見た。真言宗のお坊さんから高校生向け?のあらゆる宗派の仏教者による法話シリーズ。ちょっと物理関係も期待したのだけど、全くそんな本でなかった。19歳でヒマラヤを越えたときにお世話になった仏教大学の方にお会いして現代の宗教をおうかがいして以来、仏教に傾倒した時期があった。ここ数年も四国や高野山に出かけるなどしていて、はまるほどではないけど その思索の雰囲気がけっこう「好き」だ。◇でも法話って内容はいいとして前振りが長い。本論は「9人家族の夕飯に必要な米は4合でいい、薪は5本でいい。」という話から始められる。それから「今はガスの青い火を見ていて、昔の赤い火を思い出しながら思った。私たちは便利な世の中になってきてほんとうに幸せかどうか疑問に思うところまで来てしまった。やっぱりそしてこの次元から離れたところから振り返ってみる必要があるのではないか。」という話に発展。「ホーキングにより 膨大な宇宙を説明されているが、その時間のアイデアは仏教でも「未来永劫」(天女が袖で石をはらって擦り切れる話)で説明されていて、そうしたアイデアを身につけると心が安らぐではないか。長い時間を思って、次元を変えて立ってみたい。本当は皆自分の可能性を持っているのに、「まあいいや」と妥協を繰り返していると、それがその人の(当たり前のような)時間となって、ひいては自分の可能性を引き出せなくなる。*時間は悠々とあって「時量無限」だから、違った人生の味を見出してもらいたい。勉強するにしても その取り組み方が変わるはず。誰がやるからでなく、親から言われるでもなく、自分のためだけでなく、生きとし生けるもののために勉強してほしい。数学・英語で違った考え(文化)があるのを学び、芸術によって人間の心/心の悩みを解決することを学ぶ。次元を変えて立ってみるといろいろなことが見える。自分は大自然そのものだぞと実感して生きている人もいる。大人になることを背伸びし/焦りがちだが、あせらずにそうしたことを身につけてもらいたい。さて、このビデオ販売サイト(http://www.hojodo.com/contents/video/vnp.html)の説明部には、各宗なりのエッセンスと思われたので記録しておく。何を強調するかは教えを求める人たちの個性に応じたものであって、伝えたいことは似ていたり同じだったり=矛盾すること違うことは言っていないのではないか。歴史においていろいろな宗派が当時の必要に応じて、信ずるべきことに導こうとするわけだけど、現代と同じように人々が人生に悩んでいた様子がヴィヴィッドに伝わってくるようで感慨深くもある。

◇ いのちを育てる道<浄土真宗> 人は死んだらどこへ行くのだろうか、自分自身の存在はどういうものであるか。宗祖はそれらを明確に自覚した(信心決定)。この世に生まれた歓び、生きている意味とは。我身を知り、わが人生を知り、仏の教えを知ることで、真実を求めて生きる・偽者でない・本物の人生を求める生き方、怒りと腹立ち・嫉妬・そねみ・ねたみ・エゴイズムむきだしに生きている自分の姿を知らされる/私の「いのち」が育てられる。そして一層、豊かな人生がそこから開かれる。生きること・死ぬことの悩み・淋しさ・悲しさ・空しさ、人間は一人で自らの人生を生きていかなければならない、この厳しい現実を見つめる事によって本当の生き方が得られる。そして、念仏は我身を通して法蔵菩薩が呼びかけて下さる魂の叫び(こちらからどうか助けて下さいというのではなく、目に見えない仏様の方から自分に呼びかけていただく)、すなわち、仏の真実の魂の叫びにふれる世界である。
 
◇ 温かい大きな愛に包まれ育てられている<浄土宗> 「アミダ」は、生きている者も死者も、昆虫も花もすべてを平等に包みこむ大きな「無量のいのち」。夕日をじっと見つめていると私たちの心が洗われるような、そういう思いがする。大人でも子供でも夕日を見ていると心が洗われる。こういうものが自然の中に沢山有るはず。水でも植物でも自然のものをじっと見つめてみたい(マンダラの教え)。私たちは如来の胎児。温かい大きな愛に包まれ育てられている(温胎の時間)。万物を平等に慈しみ育む「大慈悲」の中に草や虫と共に生きている自分自身の姿に気付くと、その瞬間から、自分の心と「仏心」との間に温かく爽やかな和音の共鳴が始まる。
 
◇現代に生きよう<天台宗> 「共生」(仏教用語)は人間社会の生きる道であり、たくましい智恵である。そこに親子が共に手をたずさえて生きていく智恵、いのちの尊さ、いのちとの対話、助けあっていきること等がある。そして、一隅を照らして、人間が人間らしく生きること、これが人間の最高のあり方である。日々の生活の中で、本当に真実の人間としての生活を続けていくことに、我々の人生の目的があるのではないか。仏教ではこの真実の人間を発見した人としてお釈迦様を大きな目標にし、自分の道として歩もうとするだ。今自然環境の破壊からくる生態系の異変があるが、日本人の祖先達は、一木一草の中に仏を見てきた。我々を取りまいている全ての環境に仏が生きとし生きているのだ…その観点に立ってこそ豊かな心が育まれ、豊かな世界が創造できるはずだ。
 
◇生きたまま成仏<真言宗> 人間の理想の姿の追求とは、生きているうちに仏になろうということ(即身成仏)。あったかい言葉・仏とコミュニケーションをもてる仏と共通の言葉=真言、を唱えることに新しい感性・発見があるかもしれない。仏の光を戴いていつも輝いていよう。自分が今立っている次元から離れてものを見ると、将来にわたって、先の先まで続く考え方が身につくかもしれない。それを人生に生かして行こう。観音様に会いに行く旅は一度行くと必ず又行きたくなる旅だ。優しい観音様の顔を見て、心の幸せを感じる。辛い事や、悲しい時でも助けて下さる。その思い出、その歳月、その時期は人生の中で、いつまでもいつまでも輝いている幸せな旅である。

◇一筋の道<曹洞宗> この便利な世の中で、見たい事、聞きたい事、やりたい事は周囲に沢山ある。よほど心の手綱を引き締めてかからないと、自分の本来持っている天分を発揮する事が出来なくなる。そこで、自分にとって何が大事か、自分にとって何が不要なのか、無駄を省く努力をしなければならない。人間は一人では生きられない。困ったとき、知らない人からほんの少しでも親切にされると大変嬉しいが、親しい人からの親切にそれほど感じないのはなぜか(感じるべき?)。高齢者社会の今、“死”はすべての人の身近な問題となった。死とは何か。死をどう受けとめたらよいか。愛する者との死別に何が出来るか。人類永遠の問題・「死の受容」を“仏教の智恵”に学ぶ。“霊”という観念は、私とは何か、人間とは何か、命とは何かについて答えを与えようとするもの。たたり霊、背後霊、守護霊…感謝と喜びの正しい霊観念を持ちたいもの。

◇自分を大切にする 禅 <臨済宗> 忙しいという字は心が滅ぶと書く。見も心もボロボロになる。だから余り忙しがらない方がいい。禅の有難さ、面白さというのは、人間の生き方の中で本当に無事なんだ、どんな事があっても動じない、そういうものを掴んでいくところにある。人の心の中には、ちゃんとほとけさまの心が宿っていらして、そういうもう一人の尊いあなたに出会って、豊かな人間になるのが、直指人心、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)ということ。禅のこころ無事是貴人:無事とは、正しくは執われのない心です。貴人は、ほとけさまのことで、無事是貴人とは、ものに執われず、さらさらと水の流れるように生きるのが、仏心の生活です。

◇自分を愛し、他人(敵)を愛す<日蓮宗> 国と国、人と人、私達の周りには避けがたい様々な争いがある。この争いの相手(敵)にこそ実は真の友がおり、師(先生)がいる(善知識)。自分を少しでも立派に、そして、もう少し人間らしく生きたい、という心は自分を愛する心にほかならないが。一方、世の為、人の為に尽くそうとする無辺の誠意とは他人を愛するという二つは仏教では「菩提心」という言葉で教えてくれている。この荒んだ現代の中で、人に認められたい・愛されたい・自由でありたい=私たちの欲望や物質的欲求を超えて、生きることの信念・生きていてよかった・生ってすばらしいという精神の尊厳・いのちの自由を、獲得することができるか。

戦艦「大和」が沈没して60年たち、呉で慰霊の献花がされたということだ。小学生の頃、太平洋戦争の戦記から各地の空襲の記録まで読み漁った。軍艦・戦闘機のプラモデルも良く作った(僕の狭い部屋は接着剤と塗料でいつもシンナー臭かった)。子供ながらその美しいデザインにも惹かれていた。我が家では弟との間で軍艦プラモデルの「建艦制限」なるものがあって一ケ月に戦艦/空母1隻、駆逐艦2隻などと決められたくらいだ。宇宙戦艦のほうも好きだったけど、身近に武蔵・榛名と乗り継いで最後に神風出撃を待機していたという叔父さんがいらしたからか、ファンタジーにはそれほど盛り上がらなかった。対して「菊水特攻」については何冊読んだろうか。特攻同様、まったく悲劇だ。そして平塚に越した際、乗組員でらした八杉康夫さんの講演があって聴講させていただいた。初めて乗艦した際、「絶対沈まない!と思っていた「不沈戦艦」が沈没し、重油が漂う波間で生死をさまよっていた時、「上官が「おまえは生きろ」と自分の浮き輪を投げてよこした。「国のために死ね」と言い続けてきた人だった。一方では蹴落とし合いながら救助ロープに群がる仲間がいた。「戦場は死に場所でなく、人が国に殺されるところだった」(新聞記事より)」と語られていた。「聖戦」の建前と実際を強く思い、そのリアリティに些少ながら残っていた戦争ロマンも消えた。あれから60年経ったということは一番若くいらした当時二十歳の方でさえ今80歳ということだ・・・亡くなられた方々の無念、残られた方々の辛さ・平和への願いに悖らぬよう心したい。

戦艦大和が沈んだ日―運命の四月七日

戦艦大和が沈んだ日―運命の四月七日

  • 作者: 八杉 康夫, 中川 秀彦, 中川 賢史朗
  • 出版社/メーカー: 牧歌舎
  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 単行本


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阿字観 観想=新しい経験 [うちゆう宇宙の旅]

ヨーロッパの歴史や価値観を理解するうえで不可欠と思っいる「聖書」。ヨーロッパからから帰ってきて旧約聖書や死海文書も含めて読み漁っていたところ、現代においてもっとも平易に宗教を語られると思われるダライラマ法王が「イエスを語る」の著作に、「瞑想を深めるためには、親しんだ教えに拠って実践することが最善」とおっしゃられているのを読んだので、自分も早く始めたいと思っていたところ、近隣で観想法を教えていただけるところがあったので、昨日行ってきた。

まず、お寺には若いかたも含めて20人くらい大勢集まっていてらしてびっくりした。後で聞くと初心者は僕ともう1人、皆1時間くらいかけて遠くからいらしているようだった。

さて、その観想だけど、良かった。ずーーっと眠かったが終了5分前(開始20分後?)に突然・閃いたように気持ちよくなった。それが適正な現象なのかどうかまだわからないが(1回目からなになに聞き質すのも憚れたので真相はわからない)、その後もしばらく夜まで心地 よかった。何か新しい経験をしたことはまちがいないようだった。家でもできるらしいが ちょっと恐いくらい。集中できるかもわからないけど まぁいい、これから何回か習って検証してみようと思う。

さて、ご住職いわく、
・観想は瞑想の一つであるが、座禅にこだわらず、息を大きく吸えるように、姿勢を楽にして、瞑想中に姿勢が辛くなって気になるようなことがないように、小さなことにこだわらず大雑把に、リラックスしてすることが肝要。

・呼吸を吐くことに集中して行い(深呼吸と反対)、眠っているときのような心拍に維持する。吸うときは全身の毛穴から吸うことをイメージする。

・目の前の月を大きくイメージしていって、その過程で、心を空っぽにするよりは、良いイメージで満たして気持ちよくすること。

・瞑想後に瞑想中のことを振り払って(作法にもあるが)実生活に持っていかないことが肝心。それを教えないことはカルトが陥りやすいように危険。
 
余談ですが月について、1990年8月、今回、阿字観の本に読んで 月を想い浮かべる観法を知ったけれど、それにイメージされるような美しい月を、深夜の山奥で見れたことがある。そんなに白く明るく静かに力強く心に映えたすばらしい月を今だかかつて見たことがない、とそのとき思った。ところが10数日後、別の山で遭難していた友人が痛ましく発見され、どうやら その当日に遭難したことがわかった。彼がその月を見せてくれたのではないか、月には個人的にそうした思いがついて離れなくなった。


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